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梵我瞑想法十地次第徹底解説シリーズ

第21章(第5段階)「機根三気質」に通暁する(上)New!

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第二十一章  ブッディ・ヨーガの第5段階
      〜〜〜〜「機根三気質」に通暁する(上)〜〜〜〜〜

(真−21−1)

【第五段階】「機根三気質」に通暁する(上)
 
 たとえ、普遍的な「罪悪の発生原理」を看破し、「超宗教の四源罪」について理解・自覚したとしても、それだけではまだ不充分である。もしも、現実生活の中で「四源罪」についての知識が活かせないならば、その知識は無用の長物になってしまう。
 修道心に燃える者は、脚下照顧の一貫として、自分の性格について自己分析し、自分が犯し易い罪悪の傾向を把握した上で、その弱点について対策を立てるものである。穢れた霊の軍団は「相手の弱点」を攻撃して来るものだからである。
 「自分はどのような種類の善を求める傾向が強いのか、又は、どのような種類の悪を求める傾向が強いのか」等々について、できる限り客観的に自己分析する必要が有る。

 
(真−21−2)
 人間の性格は千差万別である。万華鏡のように多種多様な人間の性格は、原因なく突然生起したものではない。因果律の法則の中で然るべき原因が有って生起する。即ち、過去世(過去の地球上の生活、及び過去の霊界での生活)において、各人が、自分の興味と愛着に従ってその事柄を追求し、それを反復することで、それに関する知識(と判断力と経験)を蓄積して才能を伸ばした結果、各人に「得手/不得手の差異」が生じ、多種多様な人格傾向が生じ、多種多様な気質が形成されるのである。
 こうした背景が有るからこそ、オギャアと産まれた時に、才能に差が有り、気質に差が有り、資質に差があり、賢愚に差が有り、天才・凡才の差が有り、(心根に)柔和と粗暴の差が有り、容姿に美醜・剛柔の差が有り、執着する分野に差が有る等々の現象が生じる。
 例えば、一つの実験として、或る口約束を三歳児と結び、その約束をその子がちゃんと守るか否か、様々な誘惑をして試してみると良い。すると、必死に約束を守ろうとする子や、約束を破っても何とも思わない子など、子供によって様々な気質の差を見出すことができる。こうした現象は、子供たちが過去世から「何か」を継続的に持ち越して来ている一つの証左なのである。


  
(真−21−3)
 これを仏教では、「薫習(くんじゅう)」と言う。薫習とは、薫りが衣服に染み付くように、過去の行為の経験・印象・記憶等々が結果として残存し、自我の潜在意識に一定の影響力として染み付くことである。
 但し、薫習の発生は過去世に限るものではない。今生において、悪い習慣(体験)が染み付き、それが深い意識レベルで、強烈な印象・記憶・刻印として残存してしまった時も、それは一つの薫習になる。また、今生において、新たに良い習慣(又は体験)が染み付き、それが深い意識レベルで、強烈な印象・記憶・刻印として残存するようになった時も、それは一つの薫習になる。
 そして、この薫習の影響力によって形成され生起するのが、「習気(じっけ)」である。
 習気とは、潜在的な薫習が、表面上の実際の性格傾向、即ち<気質>として顕現して来たものである。よって、習気の気とは、気分の気ではなく、気質の気と理解すべきである。
 例えば、「陽気/陰気」という性分の差や、「正直/不正直」の差や、特定の欲望に取分け強く引き付けられる傾向などは、習気による処が大きい。
 各人の−−−煩悩であれ、離欲の心であれ、我の強さであれ、我の希薄さであれ、心の弱さであれ、心の強さであれ、意志の強さであれ、意志の弱さであれ−−−こうしたものの多くは、習気として生起している。〔※註1〕
 そして、こうした薫習・習気が働く人間の性質(性格)を「機根」と言う。
 機根の「機」は、機械の機であり、「からくり、しかけ、システム」の意味である。機根の「根」は、植付けられた根っこの意味である。よって、人間の個我に、根として出来上がった一種の「心理機構」としての性質(性格)が、人間の「機根」である。〔※註2〕

 
(真−21−4)
〔※註1−−−但し、人間の総てがこうした「習気」に支配されている、という見解は悲観的・退廃的な運命論者の邪見である。真我に習気が無い以上、人間は本来的には、それらを超越した存在と言うべきである。それ故、過去からの(個我の)習気を超越しようとして、今現在、新たな「良い薫習・良い習気」を身に付けようとする「意志・努力・祈り・礼拝・修行」は、(たとえ過去の薫習・習気の影響を受けたとしても)やがて「悪しき習気」を振り払い、消し去る力を持っている。〕〕〕
〔※註2−−−従来の仏教の中には、「機根」の意義をとても狭く絞り込み、薫習と同義に解する見解もある。しかしそうではなく、人間の「心理機構」全体を「機根」と捉えるべきである。何故なら、あらゆる心理的な動きは、機根と無縁では有り得ず、そうした内的動きには必ず原因があり、或る種の心理的システムが作動して、初めて具体的な様々な心理的動きが生じて来るからある。つまり、全体で「一つの心理機構の営み」と見るべきなのである。よって、「機根」は「性格機構」又は「人格機構」と換言し得るもの、と言うべきである。〕〕〕
 
 
(真−21−5)
 “一般的な意味”での「人間の機根(性格)分析」としては、古代から様々な分野で研究がなされている。例えば、人間の性格を「一定の類型」毎に纏めて−−−占星術の見地から類別するものや、人相学の見地から類別するものや、血液型で類別するものや、深層心理学や精神分析学の見地から類別するもの等々が有る。
 そして、現代では、人ゲノム計画による「一般的な人間」の遺伝子情報の解読が終了し、更に、解読した塩基配列の機能解析に研究が移行しつつある状況である。そうして、やがて個人の遺伝子情報も完全に解析される時代が来ると、個人の遺伝子配列とその人の性格との関連性を研究する学問も勃興して来るであろう。
(但し、個人レベルの遺伝子情報が完全に解析されても、それにより、その人の性格が完全に判明する日は来ない。何故なら、薫習の問題は霊的カルマの集積の問題であり、霊魂の「媒体性能」の問題だからである。このことを「人志の独立騒動の譬え」(真−19−11以下)で言うならば、幾ら「高級車」に当たる「肉体の遺伝子情報」が分かっても、高級車の操縦者の性格までは分からない、ということである。勿論、車の性能の良し悪しによって、操縦車の気分も変わって来る。その意味では、或る程度の相互関連性は認められる、とは言える。)

 
(真−21−6)
 一方、“宗教的な意味”での「人間の機根(性格)分析」としては、「善悪」に対する各人の態度に着目して、至極単純に、次の「三種類の気質」に類別すれば必要十分である。(善悪の定義については、真−18−29、30)
 
      〔A型〕 悪よりも善を優先して選択する気質
      〔B型〕 悪と善の両方を求め、双方両立させようとする気質(二者択一を拒否する気質)
      〔C型〕 善よりも悪を優先して選択する気質
 
 これが「機根三分法」である。(これを本講では、「機根三気質」と呼ぶことにする。)
 善悪に対する人間の態度は、論理的にこの三通りしか有り得ない。それ故、総ての人間は、この三気質の枠組みで把握することができる。

 
(真−21−7)
 この「機根三気質」について、本講では、誰もが各気質の「中核的特徴」を至極明瞭に把握できるように、各気質を次のように呼ぶことにする。(本講独自の造語)
 
 A型の気質−−−甘露的光明志向性気質
              これを略す時は「随光性」。形容動詞化すると「随光的」。
 B型の気質−−−覇権的名誉追求性気質
              これを略す時は「矜恃(きょうじ)性」。形容動詞化すると「矜恃的」
 C型の気質−−−荒頽(こうたい)的暗黒粘着性気質
              これを略す時は「荒頽性」。形容動詞化すると「荒頽的」。
                ★「荒頽(こうたい)」は本講独自の造語。「後退」との掛け詞。

 
(真−21−8)
〔A型気質を「“甘露的光明志向性/随光性/随光的” 気質」と呼ぶ理由〕
 
 A型気質は、悪よりも善を優先する気質である。この気質の中核的特徴は、罪悪の暗黒的行為よりも、善の光輝(「無為」の光明)を求める点にある。即ち、暗黒的な罪悪を「超克」することを望み「光明を志向する」気質である。
 それ故、この気質には「光明志向性」が有ると言える。
 しかし、単に「光明志向性気質」と呼ぶのでは、霊的経験の浅い修行者にとっては、漠然と「光明」と言われても、その具体的中身が今一つピンと来ないはずである。そこで、「光明」の内容をもう少し敷衍して−−−<甘露的光明>−−−と呼ぶことにする。何故なら、霊的光明は、本来的に「甘露」と言える「慰安的要素(慰安性)」と不可分の関係を有しているからである。
 ところで、一般的意味での「慰安」とは、心に慰めを与え、安らぎを与えることである。しかし、機根三気質は人間の霊性に関するものなので、「霊的光明の甘露の慰安性」と言う場合、ここでの慰安の「慰」は「霊的慰め」を、「安」は「霊的平安」を指すものと、是非、解釈してほしい。
 このように解すると、「光明」それ自体が持っている「甘美な慰安的要素(慰安性)」は、「心に<霊的慰めと霊的平安>をもたらす働き」だと理解される。

 
(真−21−9)
 そもそも、「1.霊的光明 2.霊的慰め 3.霊的平安」の三者は、一体不可分の関係にある。即ち、霊的光明を受けている時には、その者の心には、霊的慰めと霊的平安が有る。霊的慰めと霊的平安が心に有る時には、その者の心には、霊的光明が流入している。
 では、ここで言う「2.霊的慰め」とは、具体的にはどういったものなのか?
 霊的慰めとは、「信仰・希望・愛」の増大を体験する総ての場合がそれであり、また、「霊的な歓び」を体験する総ての場合がそれである。
 より具体的に言うと−−−聖なる愛に感動して落涙する時。自分の罪悪を思って慚愧の念で涙しながらも、克己力(真−10−1)の流入を願いながら、超越の道を進む勇気と意欲を感じる時。奉仕や讃美の行為に関連して感涙する時。明るい希望に燃え立つ時。純粋な愛に燃え立つ時。深い感謝の念に燃え立つ時。霊的な喜びや霊的な平安を如実に感じる時。深い安息の中に居ると感じる時。「勝義諦」への渇望が燃え立って、万物万象を「無常」と観じ、万物万象それ自体には囚われず、深い瞑想の中で、万物万象の「自性有る本源」の「壮大無比なる荘厳性」に心が賛嘆・感嘆・歓喜する時等々−−−こうした時は、まさに「霊的慰め」を受けている時である。そう理解して良いし、そのように自覚すべきである。〔※註3〕
〔※註3−−−ここでは、偉大な黙想者、聖イグナチヲ・デ・ロヨラの定義付けを大方援用している。彼の著書「霊性鍛練法」〜〜〜(日本カトリック教会用語では普通、「霊操」と呼ばれているが、一般人からすれば、「霊性鍛練法」と呼ぶべきである。呼称について詳しくは、『般若心経完全マスター・バイブル』後篇第6章 を参照)〜〜〜 の「諸規則」の「第一週のための霊動辨別のための規則」の第三則参照。
 彼の定義付けをここに援用した理由は、彼が「霊的慰め」の本質を実に的確に表現していること、及び、彼の「霊性鍛練法」をより多くの人が知るようになるためである。〕〕

 
(真−21−10)
 修行者が、こうした「霊的光明の慰安性」を明確に自覚した上で、自覚的に光明を欣求(ごんぐ)すると、その渇望と祈念の強さに応じて、実際に霊的光明が流入する。そして光明の流入を受けると、修行者は霊的慰めと霊的平安を如実に体験する。そうすると、その「精妙な法味」と「甘美な法楽」に味をしめた修行者は、より一層の光明を求め志向するようになる。
 こうした「善なる循環回路」が作動し始めるが故に、修行者の「甘露的光明志向性」気質は、より一層拡大し、強くなって行くのである。
 この「善なる循環」を理解した上で、「甘露的光明志向性」について瞑想するならば、瞑想者の意識は、自ずと霊的な「光明・慰め・平安」に向けられ、その集中力によって、瞑想者の「甘露的光明志向性」気質は、徐々に拡大・増大して行く。
 従って、「甘露的光明志向性」気質という名称は、瞑想に最も重要な三要素「1.光明 2.慰め 3.平安」に直結した、それらを強く喚起する力を持った言霊なのである。

 
(真−21−11)
<略語にする場合>
 「甘露的光明志向性」という名称は、「光・慰・安」という基本三要素を喚起する力を持った言葉なので、できる限りこれを省略しないことが(修行者の修行にとって)望ましい。
 しかし、便宜上これを省略する時には、「随光性、(及び)随光的」と呼ぶと良い。
 「随光(ずいこう)」とは、読んで字の如く、光に付き随(したが)うこと、光明に随順することである。光明を志向して、悪よりも善を優先して選択するということは、「光明に随順すること」である。
 また、次の事は一つの奥義であるが、光明を志向すること自体、光明(の働き)に因るものと言え、既に光明に随順していることを意味する(星−3−7)。よって、「慰安的光明志向性」という名称を省略して、「随光性・随光的」と呼んでも、「甘露的光明志向性」の原意は(かなり)保たれていると言える。 
 −−−以上の諸点からして、A型気質を、「甘露的光明志向性」気質、略して「随光性・随光的」気質と呼ぶことにする。

 
(真−21−12)
〔B型気質を「“覇権的名誉追求性/矜恃性/矜恃的”  気質」と呼ぶ理由〕

 B型気質は、悪と善の両方を求め、相反する両者を何とか両立させようとする気質である。善と悪の両方共、どうしても捨て難いと感じる者の気質である。この気質が優勢な者は、善を為したいという欲求はあるものの、自分の欲望の追求をも止めることができない。とは言え、我欲と悪行ばかりに身を任すのでは良心の呵責を感じてしまう。それ故、こうなったら、「善も悪も同時に満たせばよい」と、自分の都合の良いように考えるのである。
 これは、善と悪の両者を何とか無理やり融合・統合しようとする気質である。この気質では、A型の随光性気質のように、強い克己力は働かないし、強くて純粋な善性が働くわけでもない。しかし、C型の荒頽性気質のように、罪悪の欲望に流されっぱなしで、溺れてしまうほどには克己力が弱いわけでもないし、強い悪性と不純性があるわけでもない。
 従って、この気質は、随光的気質と荒頽(こうたい)的気質の丁度中間に位置する気質と言える。

 
(真−21−13)
 B型気質の中核的特徴は、悪行と善行の「二兎を追う」“貪欲性”にある。二兎を追うには、怠惰に眠っているわけには行かない。そこで、この気質が優勢な者は、或る程度、善を行う努力をして、周囲から賞賛を受け、自分の栄光と名誉が増大することを求め、そこに自分の喜びと生き甲斐と存在価値を見出して行く。それ故、この気質には「名誉追求性」が有る。
 B型気質の「貪欲性」は、C型の“怠惰で放蕩的で破壊的で鈍重な”貪欲性とは大きく異なり、(自己の名誉のためとは言え)或る種物凄く「勤勉で建設的で積極的な努力」を伴うものである。つまり、厳格に評価すれば利己性と悪性が見られるが、同時に、その活動性の中には、善性と自己超越性が(かなり)含まれている「貪欲性」なのである。
 自分の名誉を求める我欲・貪欲は、それが強くなるほどに、何をするにも、負けよりも勝ちを求め、ビリよりも一番になることを求める。よって、この傾向が著しく増大し、典型的な形にまで高まるならば、その者は、どの分野であれ、“覇権的な”名誉を求めるようになる。
 それ故、この気質を「覇権的名誉追求性」気質と呼ぶのである。
(但し、善を多分に含む覇権的名誉を求めるのか、悪を多分に含む覇権的名誉を求めるのかで、その悪性には大きな差異が生じる。これは、荒頽 コウタイ 性気質の分量の問題と言える。)

 
(真−21−14)
<略語にする場合>
 「覇権的名誉追求性」という名称は、この気質の中核的特徴を表現したものなので、その内容を明確に意識するためにも、できる限りこれを省略しないことが望ましい。しかし、便宜上これを省略する時には、「矜恃性、(及び)矜恃的」と呼ぶと良い。
 「矜恃(きょうじ)」とは、自分を矜(ホコ)り、自分を恃(タノ)むことである。即ち、一種の高慢な自信を基礎にして、他者に自分を誇ることであり、自慢や征服感に喜びを感じることであり、自分の行為や才能に誇りを持ち、尊大な態度を取り、自画自賛の態度を取ることである。「矜恃」の意味をこのように理解するならば、「覇権的名誉追求性」という名称を省略して、「矜恃性」と呼んでも、原意は(かなり)保たれていると言える。
 −−−以上の諸点からして、B型気質を「覇権的名誉追求性」気質、略して「矜恃性・矜恃的」気質と呼ぶことにする。

 
(真−21−15)
〔C型気質を「“荒頽(コウタイ)的暗黒粘着性/荒頽性/荒頽的”  気質」と呼ぶ理由〕
 
 C型気質は、善よりも悪を優先して選択する気質である。この気質の中核的特徴は、罪悪を犯したいという暗黒の欲望に執着・粘着する点にある。即ち、自分の想念や行動が暗黒の悪業だと感じたとしても、だからと言って、その魅力に抗(アラガ )うことなど全然できず、ついつい「暗黒(の悪業)に粘着してしまう気質」である。それ故、この気質には「暗黒粘着性」が有る。〔※註4〕
〔※註4−−−これを「暗黒執着性」と呼ぶこともできる。しかし、「粘着性」という言葉には、「感情的な動きが少なく、知的な働きが緩慢で、時に爆発的に感情放出を行う性格」(広辞苑)という精神分析学的な意味合いも付加されている。よって、単に「執着性」と言うよりは「粘着性」と呼ぶ方が、この気質に相応しい。〕〕〕

 
(真−21−16)
 暗黒(の悪業)に粘着する者は、自分が不正な事をしていると内心感じている。何故なら、心の奥底から良心の囁きが聞こえて来るからである。それ故、無意識のうちに−−−「いつか自分の悪業が白日の下に晒されて、指弾され、非難されるのではないか」−−−という恐怖の念を抱くようにな1。
 もし仮に、この者が正義と光明を愛するならば、勇気を持ち、甘んじて非難と糾弾を受け止めて、素直に反省して自己改善の努力に励むはずである。しかし、我欲の喜びを愛し、それに粘着する者は、極めて利己的・保身的で卑怯な心理が働くために、非難・糾弾の苦痛を恐怖し、何とかそうした苦痛から逃れようとしてしまう。
 それ故、この者は、自分の悪業が白日の下に晒されないように「暗闇の中」へ逃げ込み、そこを「隠れ家」にする。
(こうした心の動きは、禁断の木の実を食べたアダムとエバが偉大なる創造主の足音を聞いて、恐れて身を隠したという寓話に象徴的に表現されている。)

 
(真−21−17)
 こうした経緯で発生する−−−<光明からの逃避的動き>−−−が原因となって、「霊的荒(スサ)み」が発生する。
<光明から逃避する霊的動きをすれば、霊的荒みが訪れる>−−−これは法である。
 この法から何人も逃れることはできない。
 この法は、次に示す単純な原理に基づいている。
 そもそも、光明は、本来的に甘美な「慰安性」を持っている。そうした特性を持つ光明を避けて、光明から遠ざかる動きをすることは、即ち「(霊的な)慰めと平安」から遠ざかることを意味する。「(霊的な)慰めと平安」に背を向けて、それから遠ざかるならば、「(霊的な)慰めと平安」の流入は「減少、又は停止」してしまい、それらが著しく「欠乏する」ことになる。こうなると、必然的に「霊的荒み」が発生する。〔荒(スサ)みの原理〕  (食事ができなければ、お腹が減って苛立ち、心が荒れる。これと同じ道理である。光明は誰にとっても必要不可欠な「霊的な糧」なのだから。)

 
(真−21−18)
 この原理で分かる通り、「霊的荒(スサ)み」の本質は、「霊的慰めの(流入の)欠如」にある。
 よって、「霊的荒み」とは、「霊的な慰め(の流入)とは正反対の、(個我自家性の)調和の乱れた、内的に荒れた動き」を意味する。
 より具体的に言うと−−−光明の欠如した暗黒の思い。集中力の欠如。散漫な意識。祈りたくなくなる状態。感情の乱れ。思考の混乱。精神的錯乱。昏沈(コンジン)(=心が滅入って塞ぎ込み、沈鬱に落ち込むこと)。無信仰による「有為」が黒雲のように自分を取り囲み、それに呪縛されて、重々しい気分になり、鬱状態になること。我欲(肉欲)が膨張・拡大する動き。煩悩に押し流される動き。欲望の対象に引き寄せられる動き。一方的に期待をするが裏切られ、失望する心。有形・無形の煽動や誘惑・勧誘を受けて、心が落ち着かず、安定性を欠き、不安になる状態。希望を失い、失意に沈む状態。絶望感に打ちひしがれる。燃え立つ(純粋な)愛を感じない。不信感・猜疑心が起こる。不平不満。愚痴。苛立ち。短気。怒気。憤懣。妬み。恨み。怨念。憎悪。依怙地になる。我をゴリ押しする。破壊的感情。むしゃくしゃする。苛々する。粗雑さ。粗暴さ。(霊的感度の)鈍重さ。不健全な緩慢さ。総てが億劫になる。熱意と意欲を感じない。自暴自棄になる。焼鉢・捨鉢になる。自虐的になる。癇癪。ヒステリ−症状。自傷心(自分を傷つける動き)。うら悲しい気分になる。自殺願望等々−−−こうした時は、まさに「霊的荒み」が発生している時である。そう理解して良いし、そのように自覚すべきである。〔※註5〕
〔※註5−−−ここでも、前の「註3」同様、偉大な黙想者、聖イグナチヲ・デ・ロヨラの定義付けをかなり援用している。彼の著書「霊性鍛練法」(カトリックでは「霊操」と呼びならわされているもの)の「諸規則」の「第一週のための霊動辨別のための規則」の第四則参照。〕〕〕

 

(真−21−19)
 暗黒(の悪業)に粘着する者は、必ず霊的な荒みに陥ってしまう。そし良心と理性と祈りの力で我欲の執着性と闘うことをせずに、肉欲の中に留まるならば、その者の霊的荒みは、より一層増大する。そうすると−−−
<霊的荒(スサ)みの増大化=霊的頽廃(の到来)>−−−という図式になる。
 この図式は暗黒に粘着する気質の特性であるから、こうした関係性を一語で表現できれば、とても都合が良い。しかし、こうした霊的事象を表す日常用語は無い。そこで、本講では「荒頽(タコイウ)」という(霊的事柄を表す)造語を当てることにする。
 「機根三気質」は、人の霊性に関するものなので、「荒頽(コウタイ)」の「荒」は単なる心の荒みというよりも、より深い意味で「霊的荒(スサ)み」を表すものとし、「荒頽(こうたい)」の「頽(たい)」は、霊性の衰退した「霊的頽廃(タイハイ)」を表すものと解釈してほしい。
 そうすると、「荒頽(コウタイ)」を、「1.霊的荒(スサ)みによって霊性が崩れ、衰えて行くこと。 2.霊的荒(スサ)みと霊的頽廃」−−−以上の二つを意味に解することができる。
 「荒頽(コウタイ)」をこのように解すると、「光明に本来的に慰安性が有る」ように、「暗黒(=光明の欠如)には、本来的に荒頽性が有る」と表現することができる。何故なら、(前述の「荒みの原理」と「頽廃の図式」で明らかなように)「霊的暗黒・霊的荒み・霊的頽廃」の三者は、一体不可分の関係にあるからである。
 それ故、C型気質を、「荒頽的暗黒粘着性」気質と呼ぶことにする。

 
(真−21−20)
<略語にする場合>
 「荒頽的暗黒粘着性」という名称は、この気質の中核的特徴を表現したものなので、その内容を明確に意識するためにも、できる限りこれを省略しないことが望ましい。しかし、便宜上これを省略する時には、「荒頽(コウタイ)性、(及び)荒頽的」と呼ぶと良い。
 仮に、「荒頽(コウタイ)」という言葉が単に「霊的荒(スサ)み」と「霊的頽廃」を意味するだけであれば、この気質を「荒頽性」と呼ぶのは不適切である。何故なら、第一に、飽く迄もこの気質の中核は「暗黒に粘着する」方向性にあるので、これを表現する必要があるし、第二に、それをせずに、単に「荒頽性」と呼ぶならば、A型の随光性も、単に慰安性と呼べば足りることになってしまうからである。
 しかし、「荒頽」という造語は、発音では「後退」と同音なので、幸い、これとの「掛詞」にすることができる。
 「荒頽」を「後退」との掛詞と解すると、C型気質の特徴が実に鮮明になる。何故なら、悪を選択するほど、霊的な道のりでは、前進ではなく後退することになるからである。
 よって、「荒頽」という造語は、この一語で、この気質の中核である「1.霊的な後退」という方向性、及びその結果としての「2.霊的荒みと霊的頽廃」という、二つの事柄を同時に表現することができる優れた略語である。従って、「荒頽的暗黒粘着性」という名称を省略して、「荒頽(コウタイ)性・荒頽的」と呼んでも、原意は(かなり)保たれていると言える。
 −−−以上の諸点からして、C型気質を「荒頽的暗黒粘着性」気質、略して「荒頽性・荒頽的」気質と呼ぶことにする。

 
(真−21−21)
 「機根三気質」の名称の由来と各気質の中核的特徴の分析は、以上の通り。
 しかし、三気質の特徴を単に頭で理解しただけでは不充分である。
 次に、「それらがどのように作用し合っているのか」−−−<三気質の相互関係>−−−を洞察する必要が有る。
 もし仮に、一人の人間の機根が、甘露的光明志向性気質だけで満たされており、他の二気質が無かったならば、その人は聖者と言える。何故なら、その者は、一切の悪を行わず、悪よりも善を常に優先して選択する人間に成っているからである。〔※註6〕
 しかし、聖者ではない普通の人間の機根には、甘露的光明志向性気質だけが有るわけでは決してない。そうではなく−−−

 
  一人の人間の中に、「覇権的名誉追求性気質」と「荒頽的暗黒粘着性気質」が厳然として存在し、「甘露的光明志向性気質」の働きを妨害している
 
 −−−という構図が有る。
 一人の人間の性格(機根)は、この「三気質」が同居して、互いに優勢・劣勢を競い合い、複雑に拮抗し合うことで出来上がっている。つまり、「三気質の勢力地図」の違いにより、各人の機根には多様な色合いの差が生じて来る。(但し、機根の差異は、この三気質だけによって決定するものではない。註6参照)

 
(真−21−22)
〔※註6−−−「焦穀、芽を生ぜず」(真−13−1)というように、個我が油で全部揚げられた時には、悪を優先して選択する気質が全部焼失・死滅してしまう。つまり、覇権的名誉追求性気質と荒頽的暗黒粘着性気質が、一掃され、消滅してしまう。
 この場合、「聖者は、皆同じ性格(機根)なのか」という疑問が出て来る。
 しかし、当然の事ながら、聖者が皆同じ性格(機根)であることはない。確かに、「超宗教の機根三分法」によれば、聖者は皆「随光性気質」一つであって、同じ気質と言える。しかし、「聖者は善のみを行う」と言っても、善には無限の種類があり、無限の分野がある。
 よって、聖者に「成る」前に様々な才能と得意分野を持っていたのに相応して、聖者に成った後でも、各聖者には得意の分野に差があり、得意の才能に差が出て来る。
 宗教的な視座からの「機根三気質」は、飽く迄も「善悪の選択力」という物差しで類別した区別に過ぎない。〕〕〕
 
 
(真−21−23)
 「機根三気質」の相互関係は、色彩の三原色の原理に譬えることができる。
 たった三つの原色の微妙な配分の差によって、何百・何千通りもの違った色彩が生起する。機根三気質の場合もこれと同じである。
 また、この「機根三気質」の相互関係は、三種の基本スパイスに譬えることができる。
 三種類のスパイスを混ぜ合わせて特製スパイスを作る場合、その三種の分量・配分を微妙に変化させることで、微妙な味の違いの有る特製スパイスを、何百通りも作り出すことができる。機根三気質もこれと同じである。

 
(真−21−24)
 しかし、もう一歩深く踏み込んで洞察するならば、結局の処−−−
<機根三気質は甘露的光明志向性気質と荒頽的暗黒粘着性気質の二種類で出来ている>−−−と言える。何故なら、覇権的名誉追求性気質は、この二気質が混合・融合したものだからである。
 この現象は、水が「水素(H)と酸素(O)」から成ることに譬えられる。
 水素も酸素も普通の気温(摂氏二十度〜三十度前後)では、気体である。しかし、この二つが化学反応を起こして結合すると、両者とは全く別個の形態と特性を持つH 2Oという水(液体)になる。これと同様に、甘露的光明志向性気質と荒頽的暗黒粘着性気質が反応・結合すると、両者とは全く別個の傾向と特性を持つ一つの気質、覇権的名誉追求性が生起する。

 
(真−21−25)
 ところで、「根本の二気質」(随光性気質と荒頽性気質)は、全く正反対の方向性を持っている。即ち、随光性気質は善の方向であり、その先には「悟り」というゴ−ルが待っている。一方、荒頽性気質は悪の方向であり、その先には、「悲惨」「不幸」「地獄の如き痛苦」「悍(おぞま)しき悪趣」「霊魂の解体・抹消という真の霊的死」等々が待ち構えている。
 それでは、正反対のベクトルの「根本二気質」相互の力関係はどうなっているのか。
 もし仮に、荒頽性気質に圧倒的な強さが有り、連戦連勝、無敗であるならば、その者に光は無く、救いも無いことになる。しかし、人間は「真我と個我」の混成体である(真−15−20)。そして、真我は大日我であり、大光明(それ自体)である。それ故−−−

 
<甘露的光明志向性気質が皆無の人間はいないし、「機根三気質」の中で、本質的には「甘露的光明志向性気質」に最も強い力が有る>−−−これが法である。

 
(真−21−26)
 如何なる極悪人であっても、四六時中、荒頽性気質の中にだけ留まっているわけではない。どんなに凶悪な殺人犯であっても、四六時中殺人の事を考え、悪事の欲望に引きずられているわけではない。ほんの片時であれ「正気」に戻る時は必ず訪れる。
 如何に盗み癖の有る者でも、四六時中盗みの事を考えているわけではない。ほんの片時であれ「正気」に戻る時は必ず訪れる。如何に淫乱な者であれ、四六時中色欲に溺れているわけではない。ほんの片時であれ、色欲が晴れ、「正気」に戻る時は必ず訪れる。(但し、ここでの「正気」は、ふと自分を振り返るといった浅い意味である。)
 ふと「正気」に返った時、どのような行動を取るか。それがその者の運命を決める。
 光明を志向して、その正気を少しでも拡大しようと意志するのか。それとも、すぐにその正気を振り払って、豚が泥の中に戻るように、自分で自分の正気を台無しにしてしまうのか。二つに一つである。

 
(真−21−27)
 我欲に勝利するには、光明の力が必要不可欠である(克己力に関しては真−10−1以下参照)。
 修行者が、光明を志向・欣求するならば、その「志向と渇望の力」に比例して、悪を超越することができる。そうして、その者の甘露的光明志向性が増大し、強力になり、優位になればなるほど、その者は容易に悪を退け、容易に善を選択することができる。 つまり、甘露的光明志向性気質が、或る一線を超えた大きさ・強さになれば、自分の中の荒頽性気質と闘うことが随分と容易になるのである。
 この道理は、同時に、荒頽性気質が或る程度以上の大きさ・強さになってしまった者が、我欲の流れに抵抗して、それに勝利することはとても難しい、ということも意味している。
 しかし、原因無しに荒頽性気質が肥大化することは有り得ない。つまり、そこまで荒頽性気質を肥大化させてしまった“責任はその者自身にある”と言う外ない。ならば、たとえ困難であっても、肥大化した荒頽性気質と「苦闘する責任」もその者自身にある、と言う外ない。
 従って、困難であっても、苦しくとも、僅かに片時「正気」が訪れた時に、意識的に光明を志向することを心掛け、少しでも、自分の甘露的光明志向性を大切にし、それを育成して行くことを念じて、内なる悪と闘い続けて行かねばならない。

 
(真−21−28)
 「機根三気質」の力関係は「魔法の絨毯と二つの鉄球」に譬えることができる。
 甘露的光明志向性気質は、(個我としての)人間を天高く舞い上がらせ、至高の高みにまで連れて行ってくれる「魔法の絨毯」である。しかし、覇権的名誉追求性気質と荒頽的暗黒粘着性気質は、その魔法の絨毯の上昇を妨げる「二つの鉄球」という重りである。そして、荒頽性気質という鉄球の方が、矜持性気質という鉄球よりも大きくて重い。
 首尾良く天へ昇って行くには、この二つの鉄球の重量をどんどん縮小して行き、最終的には、取り外してしまう必要が有る。又は、魔法の絨毯自体をどんどん大きくして、多少の鉄球が有っても、強力な飛行力で、天へ舞い上がるようにする必要が有る。
 それ故、修道心旺盛な者は−−−<自分(個我)の機根を、できる限り慰安的光明志向性気質だけの塊にする>−−−ように自覚して修練するべきである。
 そうすれば、克己力は自然に増大し、悪を退けること、我欲を雲散霧消させることが、自ずと手易(たやす)くなる。〔※註7〕

 
(真−21−29)
〔※註7−−−古くから「漸悟か、頓悟か」が議論されている。「漸悟」とは、徐々に悟りに到ることを意味し、「頓悟」とは、一足飛びに、一気に悟りに到ることを意味する。
 現代の禅家では、「漸悟」説派が駆逐され、「頓悟」説派が大勢を占めている。この状況は、キリスト教でも同じである。「即時の救い」を主張する教会が多数を占めている。
 何故なら、何でも「インスタント」である方が、大衆には「受けが良い」からである。
 しかし、厳正な因果律の法則を受け入れる者からすると、覇権的名誉追求性気質と荒頽的暗黒粘着性気質の二つが多量に残存している者が、一瞬のうちに、それらの気質を消滅させ、慰安的光明志向性気質の塊になることなど有り得ないことは余りに自明の事である。
 尚、「漸悟か頓悟か」という論点の正解の詳説は、星−10−13以下、星−26−67〕〕〕
 

 
(真−21−30)
 さて、以上の視点を基にして、各人の魔法の絨毯の「飛び具合」を見てみる。
 鉄球が大きくて、地上から殆ど飛び立てない者や、多少は空を飛ぶけれど、すぐまた地表に落ちて来てしまう者や、或る程度アップダウンがあっても、何とか全体として上昇して行く者等々、様々なパタ−ンが有る。
 これと同様に、機根三気質のうち「どの気質がより優勢か」を分析することによって、その人間の「善人度」を測ることができる。また、どのような仕事を任せることができるか、という「信頼度」も測ることができる。

 
(真−21−31)
 もしも、荒頽(コウタイ)性気質を物凄く強く持っている人が居た場合、その人は、殆ど常に善よりも悪を優先して選択する行動に出てしまうから、その者に「重要な仕事」や「聖なる仕事」を任せるわけにはいかない。こうした者に信頼を置いてしまうと、必ず裏切られる。(この種の人間には、本当に「小さな修練」を地道に継続的に与えて行く必要が有る。そうして、少しずつ自己改善がなされて行く過程を観察しながら、長い目で見守り、向上に応じて、少しずつ仕事の大きさと重要性の度合いを上げて行くべきである。)
 反対に、随光性気質をかなり強く持っている人が居た場合、その人は、殆ど常に悪に打ち勝ち、悪よりも善を優先して選択することができるから、「重要な仕事」や「聖なる仕事」を任せても大過無い。こうした人には大きな信頼を置いても、大きく裏切られることはない。
 また、もしも、矜持性気質がとても強い人が居た場合、その人は、殆ど常に自分の誉れと栄光のために善を行おうとするから、この人は或る意味、熱心によく働く。しかし、その動機は利己的である。よって、利己性が有ってもさして支障の無い類の仕事であれば、この者にかなりの信頼を置いてその仕事を任せても、その期待は裏切られずに、相当な成功を収めることができる。
 しかし、純粋に無私なるの精神で行わなければならない類の「霊的に高度な仕事」に関しては、この人は、これを適切・的確にやり遂げることができない。何故なら、途中で様々な誘惑に遭遇して、我欲に負けてしまうからである。よって、矜持性気質が強い人の場合には、仕事の種類によっては信頼を置くこともできるが、霊的に高度な信頼を置くことはできない。

 
(真−21−32)
 −−−以上が「機根三気質」の大雑把な全体像である。
 「汝自身を知れ」とは古くから言われていることである。この最深の意味は「真我の覚知」である。しかし、それよりも一歩浅い意味での「自分自身」即ち「自身の機根(三気質)」について通暁しないで、「真我の覚知」に到れるはずもない。
 それ故、「自身の機根三気質」について精妙緻密に脚下照顧して自己分析し、どの気質が優勢か、能々(ヨクヨク)自覚すべきである。
 
 次章では、「機根三気質」について、更に精密・緻密に解析して行くことで、自分に対する認識を一層深めつつ、「自我意識」の中身と動きに通暁することを目指します。


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