▼ マントラ(真言)は「意念の器」 「マントラはその意味を分かりながら唱えなければ意味がない」と教えます。何故なら、マントラとは、本来、意念を表す「マン」と、器を表す「トラ」の複合語で、「意念の器」の意味だからです。 マントラを「意味の分からない呪文」として唱える人も世の中には、沢山います。これは、未開人が「土着の呪術信仰」に基づき、色々なおまじないをするのと、同等のレベルだと言ッたら、怒られるでしょうか。 とまれ、真のマントラは、単なるおまじないではありません。霊的な効果を持つ「聖なる言葉」です。 何故なら、その言葉には「聖なる思念」が盛り込まれているからです。いえいえ、正確に言うならば、順序が逆です。 「聖なる思念が盛り込まれている文言」こそが、「マントラ」と呼ばれるのです。 自分の母語のマントラを唱える場合には、即座にマントラの意味が分かり、マントラの中に盛られている「聖なる思念」が唱える人の意識の中に 「はっきり喚起」 され、聖なる思念が心に形成されます。 だからこそ、俗悪な意識は、聖なる思念と聖なる祈念に席を譲って退散するしかなく、よって、悪想念は雲散霧消し、悪業の生産が停止し、善なるカルマの生産が開始され、悪業は減少し、清められる、という功徳が有るわけです。 ですから、一部の仏教徒や密教徒がやっているように、意味も分からないままに、サンスクリット語のマントラを呪文として唱えるならば、今指摘した霊的効果はほとんど期待できません。つまり、無駄の多い時間を過ごしている、といえます。(但し、完全に無駄だとまでは言いません。) ▼ 般若心経の大真言 と その和訳の「出来、不出来」 般若心経の最後には、これから最高・最強のマントラを伝授しよう、という前置きがあって、 「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」 というマントラが記されています。 日本に仏教が渡来してから約1500年間、この大真言は、日本では 「翻訳不可能のマントラ」 として扱われ、仏道修行者は、そのままの原語で、今もこのマントラを唱え続けています。 勿論、このマントラの意味については、色々な本で、その真意が推測され、色々な翻訳がつけられて来ました。 次の訳は、紀野一義博士による有名な和訳です。 「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ」 その他、ひろさちや氏は、こう訳しています。 「わかった、わかった、ほとけのこころ。 すっかりわかった、ほとけのこころ。 ほとけさま、ありがとう」 また、阿含宗の桐山管長は、こう訳しています。 「歩めよ、 歩めよ、 ただ歩めよ、 歩めばやがて行きつかん。 すべてを解脱した彼の岸に。 スヴァーハー」 〜〜〜〜〜〜 しかし、心経の大真言を、上記の和訳文で唱えている人を聞いたことがありません。また、このように翻訳した当の翻訳者自身も、そうすべきだとは言わないようです。恐らく、この程度の和訳では、原語の大真言に到底匹敵するはずもない、との自覚があるのではないでしょうか。 とにかく、上記の日本語文では、≪原文の梵語のような強い強い、聖なる思念≫ があんまり現れていないのです。だからこそ、上記の日本語では到底、マハー・マントラにはならないのです。 ところが、遂に遂に、原語の大真言に勝るとも劣らない≪日本語訳の大真言への完全な変換≫という大仕事を、般若宗が実現しました。これはまことに画期的なことです。 (上記の日本語訳の 「へぬるさ」 と比較してみて下さい。) 心経のマハー真言についての般若宗の和訳が、どれほど画期的で、日本仏教界にとって革命的なことか、そして、日本人にとってどれほど大いなる恵みであり福音であるか−−−分かる人にはすぐ分かることでしょう。 碧海の「日本語訳の般若心経の大真言」に触れ、これを読み、その意味を理解し、この日本語大真言を実際に唱えてみるならば、この日本語訳がまことに正しいものであり、 「大マントラを今まさに自分は日本語で唱えているのだ」 という実感がふつふつと湧いて来ることでしょう。 そればかりではありません。大真言の中に盛られた「聖なる思念」が、間違いなく、これを唱える者の心にはっきりと喚起され、聖なる法力が働き始めます。そうして、大いなる功徳と、大いなる神のご加護と、神の奇蹟が現れ始めるのを、きっと実感できることでしょう。 あとは、この「日本語大真言」を常に唱えて、この真言に盛られた聖なる思念と一体となるように心掛けた生活を送れば良いだけです。そうすれば、おのずと、その人の人生は、霊的な向上の偉大な足跡となって行くことでしょう。 ▼ その他の、たくさんの強力マントラ 叡智のヨーガは≪ノン・セクト≫ですから、どのようなマントラも自由自在に使うことができます。 それに比べて、たとえば、日蓮宗系統の教団では、『南無妙法蓮華経』を最高マントラと位置付けていますから、これ以外の『ガテーガテー〜』マントラが最高マントラだと断言している般若心経を、これらの教団では読誦しません。 また、『南無阿弥陀仏£マントラを最高と考える宗派の人々も、『ガテーガテー〜』マントラが最高マントラだと断言している般若心経を読誦することはありません。 それが悪いと言っているのではありません。各セクトには、そのセクト特有の方法が有るのが当然であり、それは尊重されるべきです。 しかし、ノン・セクトの『空』にどんどん接近して行きたい人は、セクトの限定から脱却したいと渇望するようになることでしょう。 叡智のヨーガでは、南無阿弥陀仏と唱えてもOKです。南無妙法蓮華経と唱えてもOKです。好きなときに、好きなマントラを唱えればよろしい、と教えます。 特定の神の御名でも良いですし、ヒンドゥー教のガヤトリー・マントラを唱えたり、ハレー・クリシュナ・マントラを唱えてもOKです。 その他に、シュリ・チンモイが教えているたくさんの強力な英語のマントラも推奨しています。特に、インヴォケーション・マントラは極めて重要だと位置付けています。 一方で、こうしたたくさんの強力マントラを自由自在に使用して、マントラ念誦行という簡易行を実践しながら、他方で、もう少し高度な、叡智のヨーガの実践としての、般若心経の瞑想を 『般若心経完全マスター・バイブル』の記述に沿って実践して行きます。 このような、自由自在にして、強烈な修行法が有るため、叡智のヨーガでは、どの教団との掛け持ちも関係ない、というスタンスをとることができるのです。 ★11の特長の一覧に戻る ←←前ページに行く 次ページに行く→→ このページの最終更新日 2003/12/10 著作権について ■ ■ ■ ■ Copyright (c) 2003〜 Aomi Ryu All Rights Reserved ■ ■ ■ ■
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