ホーム頁トップ  profile 梵我瞑想法十地次第ラ
目  次
 般若心経 完全マスター 
バイブル  目 次
典など  願い

般若心経マスターバイブル前篇第5章


第五章 サマディー と 悟り
        −−−人間の本当の救いとは何か?

  
 真の「悟り」とは、或る特定のサマディ−(後述)に入定することを意味します。
 では、
そもそも、サマディ−とは何なのでしょう?
 「サマディ(三摩地・三昧)」は、「単なる禅定」や「単なる精神統一」とは全く違うものです。
サマディとは、梵語で「連結・結合」の意味です。これで分かる通り、サマディとは、個我が真我に出会う直接体験です。
 
 サマディとは、
「自性の有る存在」に「個我の意識」が触れる霊的体験です。
 サマディとは、それ自体では自性の無い「個我の意識」が「超越神」としての「自性の有る存在」に
「触れ、(又は)包まれ、(又は)没入」して、両者が連結、又は合一する「超越的な体験」であり「至高体験」です。
 故に、サマディに入定(にゅうじょう)すると、
驚愕し、圧倒され、光明の法悦に浸るばかりとなります。
 
 サマディは、個我意識が不生の真我の
純粋意識と「連結・合一」する超越的体験です。
 但し、一口に「連結・合一」と言っても、これには、(個我が真我に
)「@触れる A包まれる B没入する」という段階的な浅深の差異が有ります。よって、サマディにも、浅いサマディから深いサマディまで、様々な態様が存在することになります。
 大乗仏典には、
無数の名称が冠されたサマディが記されています。しかし、それらの名称に躓(つまず)かないようにしましょう。それらは、飽く迄も総体的なサマディ体験の中から「或る側面だけ」を取り上げてその徳性を強調した名称に過ぎないからです。
 サマディを細分化して論ずることにはあまり意味がありません。どんな名称のサマディでも良いのです。とにかく本物のサマディに入ることを体験すること、それが目標です。
 
 
 「サマディ」については、以下に挙げる 
「基本的な四つのサマディ」 について、知っておけば十分です。

1) 観仏三昧
2) サヴィカルパ・サマディ
3) ニルヴィカルパ・サマディ
4) サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディ  

 
 
 では、1)〜4)のサマディについて順番に解説して行きましょう。

1) 観仏三昧 (般舟三昧・諸仏現前三昧・仏立三昧などとも言われます)

 このサマディは、先のサマディの定義からすると例外的態様のサマディであり、真のサマディとは言えません。何故なら、真のサマディは無形相の内的な光明体験ですが、観仏三昧は、外界に一つの「具体的な形象」としての「生きた仏」(又は「神や天使でも良い)」を霊視するサマディだからです。
 このサマディは、
「有形の特定対象」に対して熱烈に礼拝して行く道(インドではバクティ・ヨ−ガ=特定対象としての具象的な神に信愛を捧げるヨ−ガ」と言います)を徹底的に突き詰めた時に到達するサマディです。
 この時にその出現を観ることになる
「生きた仏」は「一つの幻影」です。しかし、ただの幻影ではなく独自に活動しますし、この幻影と会話を交わすこともできます。そして、この幻影には「触感が有る場合/無い場合」の二パタ−ンが有ります。つまり、幻影が物質化して肉体身を持つ場合と、物質化はせずに単なる映像として出現する場合との二種類です。
 
 こうした現象は
一つの奇蹟です。これは、観想者の強烈な信仰の力に応える形で、無形の超越的な存在(=「自性有る存在」)が、大慈悲によって不可思議な霊力を行使した結果、出現する現象てす。つまり、観想者の強烈な「見たい、会いたい」という渇望の結果訪れる「聖なる幻影」なのてす。(霊界から大天使や、諸聖人が出現する場合も有ります。)
 但し、このサマディに入ったと思い込んでいるだけで、単に本人が夢見ている場合(=聖なる幻影でなく、本人の俗なる煩悩の投影としての幻影を見る場合)や、夢でなく現実であっても、邪霊や幽霊の出現を「聖なる示現」と勘違いしたりする場合も有るので、繊細な注意と鋭敏な識別力が必要となります。
 
 
観仏三昧の具体的事例として、有名なものを一つ挙げましょう。
 
近代の聖者シュリ・ラ−マクリシュナが、ニルヴィカルパ・サマディに入る以前に、カ−リ−女神像を熱心に礼拝し、その結果、生きたカ−リ−女神の出現を受けて、彼女と親しく会話し、親しく教えと導きを受けたという事例が有ります。(日本ヴェ−ダンタ協会刊 「霊性の師たちの生涯」三十〜三三頁)
 
 また、純粋無垢な心と熱い祈りによって、ほんの片時だけ「聖なる幻影」の出現を霊視する場合も有ります。このような現象は、「観仏三昧のほんの一雫」の体験と言えます。
 尚、「一時的な霊視」が、偽りの「幻影」か、本物の「聖なる幻影」かは、その出来事の後の「事の成り行き=展開」を検証することで、或る程度、正しく判別することができる、と言えましょう。
 
 

2) サヴィカルパ・サマディ

 サヴィカルパとは、梵語で「区別有る」という形容詞です。つまり、観想中「形象」や「様々な想念」が残存している「有想(有相)」のサマディ(三昧)を意味します。
 サヴィカルパ・サマディには、
浅いものから深いものまで、いくつかの段階が有ります。
 このサマディに入ると、光明に包まれて、物質的な外界意識を喪失してしまいます。
 このサマディに入った人を外から眺めると、
完全に気を失っているように見えます。しかし、本人は、大光明世界に参入しており、霊的な次元での意識はしっかりと保持しています。つまり、個我の意識を保持しつつ、或る程度の思考作用も残存したまま、一面の光明世界の中で、大きな法悦を味わうのです。
 この意識次元に入ると、
その人は「光の海」の中ではすべてが完全であり、満たされている、と感じます。光の海の中は、静寂と平安と高い喜びが満ちています。しかし、まだその光の海の中に完全に没入した状態ではないので、少ないながらも自身の思考が残存しています。そうした状態で、大いなる光明と平安と高度の幸福感を味わいます。
 
 しかし、このサマディにいつまでも留まっていることはできません。やがて下降して来て、再び低い物的個我意識を取り戻すことになります。
 通常の地上意識に戻ると、この人には
「高い法悦と光明の体験」が強い印象として残存するので、この体験が「より一層の高い瞑想を渇望する」動因・薫習になります。
 とはいえ、サヴィカルパ・サマディの光明体験では、この者にこびりついた悪い薫習を完全に焼き尽くし、一掃するには不充分です。よって、このサマディから降りて来ても、
聖者になったわけではありません! よって、その後、肉欲に身を任せて行くようなことがあれば、そのまま堕落して行く危険も皆無とは言えません。〔物凄く悪いニセのグル(導師)になる場合も有ります。〕
 
 また、幸運にも「サヴィカルパ・サマディの
ほんの僅かな一雫」(或いは、それを更に薄めたような雫のかけら)」を味わう体験をする人も居ます。例えば−−−突然の光の閃きを感じ、それが辺りに広がって行くような体験をする場合や、ほんの数瞬、光に包まれ圧倒され、その光に身を任せる以外にないと感じる場合や、突然意識が上昇・拡大し、辺りの自然環境が生き生きとリアルで崇高な意識の息吹として自分に迫って来て、それに伴い強い霊的歓喜を感じる場合等々−−−がそれです。
 こうした霊的体験が原因となって、
宗教的な生活を志向するようになる人も居ます。
 
 サヴィカルパ・サマディの体験が詩頌として表現されている例も有ります。
 
  心月孤(ひと)り円(まど)かにして、光は万象を呑む。
  光、境を照らすに非ず。境も亦(ま)た存するに非ず。
  光と境と倶(とも)に亡ぶ。復(は)た是れ何物ぞ。
〔※註@〕
 
【※註@>>>−−−
「碧厳録」第九十則の「評唱」において、圜悟克勤禅師が引用している盤山宝積禅師の詩頌。次の二点の故に、サヴィカルパ・サマディ体験の表現と言えます。
 第一は、光明が横溢し、照らされる客体である「境」がそれに呑み込まれていること。
 第二に、結句で「一体これは何だ」と突然の体験に驚愕していること。これは、サマディに入った時、この光明体験を充分に消化・受容・理解することができず、その理解を超えた体験に当惑していることを表しています。ニルヴィカルパ・サマディの場合では、その正体と合一するので、深い確信と完全な理解に達し、戸惑いは生じません。
 尚、この詩頌につき
、圜悟禅師は第八十六則の「評唱」で、これ即ち「真常独露」と評しています。「真常独露」とは、「常恒なる(如来)真(法身)」が独り露(あらわ)になること、と解釈できましょう。 >>>註終了】
  
●より詳しい解説は、『真我瞑想法実践スートラ』第24章を御覧下さい。実例などがあげてあります。
 
 
 

3) ニルヴィカルパ・サマディ (ゴール/帰一/本覚)

 ニルヴィカルパとは、梵語で「区別無き」という形容詞です。つまり、「瞑想」が深まって行き、「形象」や「様々な想念」が消滅してしまう「無想(無相)」のサマディ(三昧)を意味します。(但し、「無相」と言っても、「分別有る相対相」を超越した「分別無き絶対相」を指すので、「絶対界の光明一相」とも表現できます。)
 ニルヴィカルパ・サマディ、これが
弘法大師教示の「秘密曼陀羅十住心論」の第十住心「秘密荘厳心」であり「秘密金剛三摩地」です。
 
ニルヴィカルパ・サマディに没入すること−−−これが真の「悟り」です。
 ニルヴィカルパ・サマディに没入すること−−−これが「大悟する」ことの真の意味です。 そして、ニルヴィカルパ・サマディに没入した秘密体験によって知った真実(事実)を言語化したもの、それがインド・古ウパニシャッド哲学の「梵我一如」です。(本書前篇第三章)
 

 このサマディに到達することが、修行者の
個人的な「ゴ−ル・(又は)救い」です。
 このサマディに到達した時に、
余りに圧倒的で直覚的・驚覚的な大光明体験・歓喜法悦体験の故に、その者は根本的に変容して、「聖者・聖人」となります。
 即ち、大光明体験・歓喜法悦体験が新たにその人の個我意識に
「不滅の薫習」として圧倒的に強烈に「刻印・焼印される」ことにより、その者の「過去の悪い薫習(としての刻印)」は、もはや力を持たないものとなり、完全に全部焼き払われてしまい、それと共にその者の総ての煩悩と煩悩の種子も、完全に全部焼き払われてしまうのです。
 従って、その人は聖者になります。つまり、このサマディに到達することこそ、
真言密教の「即身成仏」〔※註A〕に当たります。
 
【※註A>>>−−−禅家では「見性(けんしょう)成仏」と言います。一部の仏教学者は「『性』を『見』れば、たちまち成仏する」などとは到底信じられない、と主張して「見性成仏」という言葉を信じません。しかし、「心の本性=心の本源=心源の自性有る存在」を「見る」こと、即ち「心源」に「没入」し「無相なる実相」を「見る」体験をするなら、その人は成仏します。
 つまり、
「見性」の「見」を体験の「験」と同義に解して、ニルヴィカルパ・サマディに入定する圧倒的体験をたった一言で「見性=験性」と表現している、と解するならば、こういう解釈をすることを条件に「見性成仏」を肯定することができます。 >>>註終了】
 
 
ニルヴィカルパ・サマディに入定することこそが、「永遠の生命」を得ることです。
 より厳密に言うと、「個我が『私は永遠の生命を得た』」と言うのではなく、「始めもなく終わりもなく遍満する一大心霊」の「“病気も無ければ死亡も無い”純粋意識」そのものに個我の意識が到達し、それに没入することを「得る」のです。
 この時には、
個我の意識は消滅してしまいます。そして、純粋意識である大我の意識だけが存在します。つまり、もはや「永遠の生命」を「得た」と思考したり主張したりする「個我」は無く、無始無終の大我意識だけが「在って在る者」として其処に在ることになります。
 つまり、ニルヴィカルパ・サマディの圧倒的な直接体験を通して「自性有る存在」を如実に「知ること」こそが、「永遠の生命」に「達すること」と言えます。
 
 ニルヴィカルパ・サマディにおいては、
「見る者」と「見られる存在」が一つになり、「礼拝する者」と「礼拝されるもの」が一つになり、「瞑想する者」と「瞑想されるもの」が一つになり、「知ろうとする者」と「知られるべき存在」とが一つになり、主体と客体が一つとなります。
 これが
真言密教で言う「一一(いちいち)識心」です。「一一識心」の時には、物質的な宇宙が如何に広大無比であろうとも、「一一識心」である「秘密荘厳心」の方が全宇宙を遙かに超越して広大無辺である、というように感じます。つまり、それまでの物質的視座での「自分は宇宙の中では塵に等しい」という感覚が、転倒した感覚であったことを知るのです。
 
 ニルヴィカルパ・サマディは、余りに圧倒的な歓喜法悦・至福の体験であるため、ここに没入すると、
再び地球の物質界にある肉体意識まで下降して来たくはなくなってしまうと言われます。よって、結跏趺坐でこのサマディに入ったまま死んだようになり、そのまま意識を取り戻すことなく、肉体身を捨ててしまうヨ−ガ行者も出ます。
 しかし、
「人々に救いの道を示したい」という願いの故に、至福のサマディから下降して来て、粗雑・鈍重な地上身に戻って来る行者もいます。それが聖者です。
 ただ、最初のうちは、ニルヴィカルパ・サマディから
肉体意識まで下降して来ても「思考」ができません。よって、この世に戻りたての時は、自分の名前や年令すら思い出すことが困難になり、自分の居場所や置かれた状況を理解することも、思索することも、会話することも困難になります。
 しかし、次第に慣れることで、再び個我意識と思考作用が復活して来ます。
 そして、何度もニルヴィカルパ・サマディに入ることを繰り返しているうちに、地上意識に下降して来ても、
直ぐに「思考」できるように熟練して行きます。
 
 
●より詳しい解説は、『真我瞑想法実践スートラ』第24章を御覧下さい。実例などがあげてあります。
 
 

4) サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディ(略して、サハジャ・サマディ)    

 サハジャとは、梵語で「生来の、生得の」という形容詞です。この名称通り、生まれつき、ニルヴィカルパサマディを内的に保持しながら人間の赤子として誕生して来た、希有なる人間のサマディが、サハジャ・ニルヴィカルパ・サマディです。
 これは、最低でも前世でニルヴィカルパ・サマディを達成(成仏)した魂が、特別の使命を帯びて低次の地上界に生まれて来る、という極めて稀なケ−スです。

 
但し、赤子の時から「聖者」として振舞うわけではないことは、注意を要します。
 ニルヴィウルパ・サマディの大光明を内的に保持しつつも、普通はそれに気付かずに幼少期を過ごします。そして
、或る日突然、一気に「過去の達成」を思い出し、それが前面に出て来て「大聖者」としての能力を存分に発揮するようになるのです。
 
 サハジャ・サマディの場合、自己の内奥に圧倒的なサマディを(失うことなく)味わいながら、同時に地上活動を行うことができます。これは
−−−サマディから出定しないで、即ちサマディに入りっぱなしのまま肉体活動を行う−−−という最高に高度な芸当と言えます。
 この偉大なサマディに達することができるのは、本当に
極々少数の者だけです。
 サハジャ・サマディは、
サマディの熟達者のサマディです。よって、今生で初めて成道した程度の新米(グリ−ン・ビ−ン)の聖者に開かれるサマディではありません。
 それ故、サハジャ・サマディに到った者は
「師の中の師」「聖者の中の聖者」「大聖者」と位置付けられ、これこそが「ヨ−ガ行者の究極の姿」と言われるのです。
 
 サハジャ・サマディの達成者は、何をするにしても、
強烈で広大なオ−ラを発しています。霊的感性の鋭敏な者から見れば、このオ−ラは明白です。(このオ−ラは時に数キロメ−トルにも及びます)。しかし、物的で鈍重な意識の中に居る人は、このオ−ラを感じることも見分けることもできません。
 よって、粗野な人間は、サハジャ・サマディの大聖者を
“普通の人間”と同じに見てしまうという愚を犯し、ついつい軽視し、馬鹿にしてしまいます。
 「粗野・粗暴・暴虐」に満ちた者の想念は、悪辣であり、攻撃的であり、礼拝意識など全然無く、我欲に凝り固まっていて、感謝や敬意の念も全く有りません。よって、こうした波動を発する者が不用意にサハジャ・サマディの大聖者に近づくことは、勢い、
その者の毒々しい悪想念で、大聖者の鋭敏・微細な霊体を攻撃し、傷つけることになってしまいます。
 これで分かる通り、帰依心無き粗野な者がサハジャ・サマディの大聖者に近づくことは、
それだけで−−−霊的な不敬罪・侮辱罪・霊的暴行罪・霊的傷害罪−−−を犯すことになってしまうのです。
 こうした原理をよく心得て、真の帰依者は、
大聖者を前にした場合の「霊的エチケット」について、能々(よくよく)弁える必要が有ります。如何なる「悪想念による無礼」もないように細心の注意を払う事が大切です。注意を払って払い過ぎるということはありません。
 
 サハジャ・サマディの
大聖者の「個我」は、「真我」の完全な「器具・道具・機関」になっています。この大聖者の「個我」は、「大我・真我」の完全な手足に過ぎません。
 但し、サハジャ・サマディの大聖者が
「私は神である」と言っても、それが即「不可能なことは皆無」という意味での「全能性」を自在に「この有限世界に顕現させることができる」ということを意味するわけではありません。
 サハジャ・サマディの大聖者は「不生の真我」と一体です。そして、確かに「不生の真我」それ自体は「全知全能」です。
 しかし、飽く迄も「不生」(=具体化して生起せず)であるから、その
「全能性」をいつも全開にしているわけではないのです。神は、人間の信仰の強さに応じて、奇蹟を与えたり与えなかったりします。よって、神を求める渇望が弱い者に、奇蹟を与えることはありません。それが信仰の法則です。
 神を求める渇望が強くて純粋な者たちに対しては、大聖者は色々な奇蹟を行うことができます。
 尚、サハジャ・サマディの大聖者が複数居る場合、
各自の「性格」や「役目」や「教え方」や「力点」には差異が見られます。これは、演奏者(神)が同じでも、肉体身という使用楽器(=大聖者のこと)という媒体が異なれば、音色や演奏の範囲に違いが生じるのと同じ事です。
 
 また、サハジャ・サマディの大聖者は、宇宙を現在進行形で司っている
超越神と一体になっていますから、大聖者の活動性は、必然的に、常人のレベルを遙かに超越した、巨人的・超人的なものにならざるをえません。
 それ故、
サハジャ・サマディの大聖者の圧倒的な活動性による圧倒的な感化力は、民衆の中に強烈に浸透し、「大いなる足跡」となるのです。
 ですから、多くの宗教史の中でも、
サハジャ・サマディの大聖者の霊的な業績は、どの大聖者のものであっても、必ず燦然と輝く太陽の如きものとなるわけです。
 
●より詳しい解説は、『真我瞑想法実践スートラ』第25章を御覧下さい。実例などがあげてあります。
 
−−−− (般若心経完全マスタ−・バイブル 前篇 終わり) −−−−−
 

←←前ページに行く          次ページに行く→→ 

このページの最終更新日 2004/4/29

著作権について

   ■ ■ ■ ■  Copyright (c) 2003〜2012   Aomi Ryu All Rights Reserved ■ ■ ■ ■